橋梁四方山話
はじめに
フレシネー、フィンスタバルダー、そしてジャン・ミュラー。筆者が尊敬するこれらの偉大な橋梁デザイナーの作品には「何か」がある。彼らの作品の根底に流れるその「何か」とは一体何なのか。筆者はこのことをずっと考えてきた。分厚い基準やコンピュータのない時代に、何故数々の偉業を成し得たのであろう。はたして、我々は彼らより進歩しているのであろうか。今回取り上げる三人の偉大な橋梁デザイナーたちは、皆設計者であり施工者でもある。そして、それぞれの時代で橋の経済性を追求してきた。橋のCO2排出量はその経済性とリンクしている1)。彼らは、サステナビリティという概念がなかった時代に構造や施工の合理化を追求したことで、結果的に持続可能なオブジェクトを創造していたのである。彼らの偉業を振り返ってみよう。
プレストレストコンクリートというイノベーション
フランスのフレシネーは、言わずと知れた「プレストレストコンクリートの父」である。そればかりが学術的にもコンクリートのクリープを1912年に発見し、ブティロン橋におけるクリープたわみをジャッキによる水平加圧で修正したことは有名な話しである。我々が今でも鉄筋コンクリートの設計で使う「n=15」(鉄筋とコンクリートの弾性係数比)の起源はフレシネーである2)。
現在ならコンクリートのクリープで死荷重による応力がコンクリートから鉄筋に移行する現象は解析で追えるが、そのようなツールのない時代のフレシネーはそのことを知っており、簡便的に実際の弾性係数比の約2倍である「n=15」を設計で使うことを提唱した。1867年の鉄筋コンクリートの発明から45年後のことである。コンクリートのクリープの発見が1936年のプレストレストコンクリートの発明に大きく貢献したことは間違いない。クリープによるプレストレス力減少の把握無くしては、正しいプレストレストコンクリートの設計は不可能であったからである。フレシネーは施工会社にいながら設計者であり、材料や施工法(図-1)を開発する、まさに理想の橋梁デザイナーであった。
図-1 アーチの支保工を台船に載せて転用した工法(出典:極東鋼弦コンクリート振興)
世界の橋を変えた張出し架設
ドイツのディビダーク社の技術者であるディッシンガーは、フランスと同時期にプレストレストコンクリートを発明した。同じくディビダーク社の技術者であるフィンスタバルダーの偉大な功績は、PC鋼棒とそのカップリング技術の発明である。PC長大橋を張出し工法で架設する場合、PC鋼線は前もってシースに挿入する方法がとられていた(図-23),4))。
図-2 Costa e Silva Bridge3),4)(台船に載せられている張出し用のPC鋼線)
しかしPC鋼棒をセグメント事にカプラーでつないでいく方法であれば、張出し施工が容易になる。1950年のバルドゥインシュタイン橋で初めてこの工法が採用され、その後の実績は世界中で数知れない。まさに橋梁のイノベーションである。
1954年に当時住友建設の社長であった齊藤武幸がドイツを視察した時、支間長100mを超えたニーベルンゲン橋がちょうどこの工法で施工中であった(図-3)。同じ敗戦国でありながら、日本の技術力をはるかに凌駕する橋の建設を目の当たりにした彼は驚愕し、その足で技術導入の交渉を行うために施工者のディビダーク社に駆け込んだ。ディビダーク社からの技術移転の条件は、高張力鋼のPC鋼棒を日本で製造することであった。
図-3 ニーベルンゲン橋(出典:住友電工)
太平洋戦争前から当時唯一のスウェーデンの高張力鋼の輸入が禁止されていたので、高張力鋼は住友電工が海軍の戦闘機エンジンのばねを製造していた。PC鋼棒は26mm~32mmの直径があり、ダイスによる引き延ばしを行うPC鋼線よりも製造が困難であったことは想像に難くない。そして、PC鋼棒の国内生産が可能となり、晴れてディビダーク社の張出し工法が日本に導入された。
フレシネーとフィンスタバルダーの発明は、戦後の日本の高度経済成長を社会基盤で大いに支えた。東名高速道路、名神高速道路、東海道新幹線、首都高速道路、阪神高速道路など、世界銀行に借金しながら建設されたインフラが、今の日本の礎となっていることを我々は忘れてはならない。
構造の合理化へのこだわり
ジャン・ミュラー(図-4)はフレシネーを師匠と仰ぐ橋梁デザイナーである。筆者は何度か話をしたことがあり、筆者にとってリアルタイムの巨匠であった。フランスの施工会社で設計、施工に携わり、その後米国に渡って設計事務所を開いた。彼の代表作品は、フランス時代のブロトンヌ橋である(図-5)。斜材張力を桁内のストラットでウェブに伝達する方法(図-6)は当時斬新で、主桁の軽量化が可能となる非常に優れた構造であった。
図-4 ジャン・ミュラー(小田原ブルーウェイブリッジの現場にて)
図-5 ブロトンヌ橋 / 図-6 ブロトンヌ橋の主桁断面
筆者にとっても主桁の軽量化はずっと大きなテーマであり、創造性に富んだジャン・ミュラーの作品がいつも頭の中にあった。特に吊構造の力の伝達は、いかに合理的に斜材の張力を主桁に伝えるかが勝負である。米国のCD運河橋の主桁断面は、上下線が分離したアプローチ部の主桁を、一面吊の斜張橋部でトラス構造により一体化するという驚きの解決策である(図-7)。主桁断面の軽量化、合理化は後に話すことにするが、ジャン・ミュラーが筆者に与えた影響は大きい。
図-7 CD運河橋の主桁断面
彼が米国で興したFigg & Mullerという設計事務所は、サンシャインスカイウェイ橋やCD運河橋など数々の名作を残すが、ジャン・ミュラーのフランス帰国後、Figg Engineeringとなる。そして、ユージン・フィグの他界後、娘のリンダ・フィグが後を継ぐが、そのころからこの事務所の橋の思想がかなり変化してきた。そして2018年、フロリダ国際大学で建設中の歩道橋が落橋して6人が亡くなるという事故が起こったのである。構造はコンクリートトラス橋が斜材で吊られていたが、何とこの斜張橋部、つまり主塔と斜材は「飾り」であったというから、一世を風靡した事務所の変貌には言葉を失った。
過去の偉大な橋梁デザイナーたちは何を追い求めたのか
ここに挙げた橋梁デザイナーたちは何を追い求めて創造性を発揮してきたのであろうか。三人とも設計、それもコンセプチュアルデザインと施工に長けていた。彼らが最小コスト、最短工期、構造の合理性を追求したことは間違いない。耐久性に対する要求が今ほど強くなかった時代は、材料最小、つまり構造の軽量化がコスト最小であった。
フレシネーは鋳鉄が橋の材料の主流であった時代に、コンクリートでいかに早く、安く建設するかに知恵を絞った。フィンスタバルダーはコンクリートの長大橋をいかに容易に建設するかを考え出し、コストダウンを図った。ジャン・ミュラーは構造の合理性を追求し、同時に施工性を重視した。
彼らが追い求めてきた技術革新は、その後の社会に大きなインパクトを与えた。人類の繁栄に多大なる貢献をし、経済成長を支える礎となったのである。彼らの作品は、今再評価しても十分納得のいく解決策であったと言える。サステナビリティという概念がない時代にもかかわらず、見事サステナビリティの三つの側面、社会的側面、経済的側面、環境的側面をカバーしている。これは、間違いなく考え抜かれ、創造性を発揮したコンセプチュアルデザインがあったからである。そして、それらはコンピュータのない時代の偉業であることを忘れてはならない。
人の脳内で熟考される「創造性」を無くしては、持続可能な橋は生まれないと筆者は確信している。困難な制約条件があればあるほど、橋梁デザイナーは力を発揮する。筆者は彼らの作品に橋梁デザインの真髄を見るのである。
参考文献
1)春日、コンクリート構造物のライフサイクルにおける低炭素化の方策、土木施工、2023年11月
2)E. Freyssinet, Etudes sur les déformations lentes des ciments ou retraits, First International Congress for Concrete and Reinforced Concrete, September 1930
3)Arquivo Público do DF. 1971a. Fundo Novacap I. Código Nov. B09. Ano, 1969-1971. Proc. 12610/69. Parte I, Caixa:158. Consultado em março de 2006.
4)R. P. da Fonseca, J. M. Morales Sánchez, Oscar Niemeyer’s bridge in Brasília, Structures and Architecture, Taylor & Francis Group, 2010
以下、(その2)に続く。