超緻密高強度繊維補強コンクリートによる橋梁の補修・補強
第2回 ―ドイツ・オーストリアの事例―
コサカ設計・アソシエーツ代表
(J-テイフコム施工協会理事)
上阪 康雄氏
1.帰国、設計コンサルタントに
前回7月11日掲載記事において、私のドイツとの関わりを書いたが、南米に戻った留学仲間からコロンビアに来てみないかとの誘いを受け、コロンビアの山間の町、マニザレスに妻とともに向かった。一応、チャンスがあれば職探しも考えて、ミュンヘン工科大学修了証書をバイエルン州政府に持参し、証書に認証印と署名をお願いした。だが、スペイン語が片ことではやはり職探しは困難で、1か月後にはバスと小船でカルタヘナ港からカリブ海に浮かぶサン・アンドレス島経由で、グアテマラ・メキシコの遺跡を見学しながら、北米ロス・エンジェルス郡の町、レドンドビーチにたどり着いた。この町にイタリアの友人が住んでいるからだった。この町の海沿いにワンルームを借り、東ベルリン生まれの妻と私は英語スクールに通い、私は午後は単純アルバイトをして過ごした。1978年当時、町の英語コースは無料で受講できた。それから5か月、妻の英語はみるみる上達し、二人で日本へ行く決心がついた。
1978年に帰国して、私の実家である滋賀の比叡山麓坂本に住居を定め、ほどなく息子アンドレーが生まれた。幸いにも、ミュンヘンで知り合った新構造技術株式会社の曽川文次氏から、東京で働かないかとのお誘いを受け、家族ともども東京に引っ越した。新構造技術では、主にPC橋の設計に関わることになったが、特に印象に残っているのは、首都高足立三郷線のAS21工区に架かる9径間連続PC箱桁橋、橋軸方向反力分散を目的としたPCケーブル、いわゆるSUダンパーによる地震時の反力分散装置の設計であり、首都高・池内武文氏らと設計協議を重ねた。
中央道大月ジャンクションに近い前原跨道橋の改築に伴う破壊実験も興味深いものであった。
図-1 前原オーバーブリッジ
斜パイ構造のPCけたの撤去の前に、中央分離帯部にアースアンカーを取り付け、橋桁中央部に荷重を加えることで、実際の耐荷力を調査するものであった。計測会社の技師にゲージの貼り方を習いながら、内部のPC鋼材をはつり出し、自らゲージをこれに貼った。さらに、山梨大学の桧貝勇教授に助言を受けながら、コンクリートの非線形性を考慮した解析手法を用いて終局荷重を算定した。本実験は、夜間交通止めをして、関係者が見守る中で行われた。解析終局荷重は320tfほど、実験では300tfを越えて支間中央部下部・中間支点上部にひび割れが生じ、たわみが13㎜になった時点435tfにて実験を終了した(図-1)。
この頃日大の色部誠教授に誘われて、東大の岡村甫教授が進められていた非線形解析研究会に参加する機会に恵まれた。この研究会で異才を表しておられたのが、まだ大学院生だった前川宏一先生である。なお、色部誠先生は毎土曜日に駿河台教室にて、アメリカのW.F.Chenのコンクリートの塑性解析を読む勉強会を開いておられ参加した。北大の大沼博志教授、東北学院大の遠藤孝夫教授らもメンバーだった。この成果は1985年に丸善から“コンクリート構造物の塑性解析”として出版された。
ある日、紀尾井町にあった道路公団から電話があり、池田甫氏からレオンハルトのコンクリート講座を本四公団の成井信氏とともに翻訳してみないかとの連絡を受けた。仕事に直結するわけでなかったが、レオンハルトのコンクリート講座は、当時、ドイツの建設系学生の必需本だったこともあり、第6巻のコンクリート橋から順次取り組むことになった。私の職場が、四ツ谷に有り、紀尾井町に近いこともあって、それからアフターファイブには、池田グループに行くことが多くなった。当時、私は長髪で草履履きでもあり、目立ったかもしれない。当時の池田グループのアフターファイブは、ビールを飲みながらの無礼講であった。その幹事役は、坂手道明氏、多久和勇氏等であった。当時、レオンハルト講座の翻訳は、中央線の座席で行なった。今ではとても無理であるが、当時は、不思議と電車内で集中力が保持できた。最初の翻訳本は、1983年に鹿島出版会から出版された(図-2)。
図-2 レオンハルト・コンクリート橋
この頃、熱心に取り組んだ業務で忘れられないのは、首都高かつしかハープ橋を意識した斜張橋ケーブル定着部に関する実験研究であり、富士の建設機械化研究所に足繁く通った。その頃知り合った伊藤文夫氏は、現在技師長をされている。この試験結果は、土木学会年次講演集1983“斜張橋のケーブル定着部近傍の応力分布と疲労特性”山崎,安藤,上阪,能登として報告されている。佐賀の呼子・加部島をつなぐPC斜長橋の設計もやりがいのある仕事であった。中央支間長250mは当時国内最大で、九州産業大の吉村健教授の指導の下に耐風検討を行った。しかし、私の夜の帰りが遅くなる生活は、ドイツ生まれの妻には耐えられるものではなかった。そこで、家族そろってドイツに帰る決心をした。
2.ドイツにおけるUHPFRCの適用
スイスの隣国ドイツにおいても、2004年夏ヘッセン州にて、最初のUHPFRC橋がカッセル大学の研究成果としてカッセルの隣町ニーステタールに建設された。この橋の特徴は、工場製作の12×3mのPC版桁であり、版の両端にPC鋼7本より線(SUSPA,150 mm2)を配置・緊張した後、トラックで現地に搬入した。自転車・歩道用の厚さ10cmの床版上には5mmの滑り止め層が敷かれている。活荷重として、5トン管理車が見込まれている(図-3、図-4)。
図-3 ニーステタールの架設と断面
図-4 ニーステタール橋、2004年
カッセル近郊には、この他、長さ7m、9mのUHPFRC橋も架けられた。さらに2005年、2主鋼桁の上に、厚さ4cm、サイズは18m×2mのプレキャストUHPFRC床版を取り付けた自転車・歩道橋も架設されている。軽量であることがこの橋の特徴と言える(図-5)。
図-5 鋼-UHPFRC合成桁橋、カッセル
カッセルでは、これらの橋の建設による成果をもとに、より大きなフルダ河に架けられるゲルトナープラッツ橋が、UHPFRC橋の目標になった。元々そこには、連邦ガーデニング展に合わせて自転車・歩道用木橋が架かっていたが、劣化が進み取替えが検討されていた。但し、中間橋脚は再利用したいとの意向があった。この点で、カッセル大での研究が進み、耐久性に富み軽量であるUHPFRC橋が候補にあがった。種々の検討の後、幅5m・中央支間36m・全長136mのUHPFRC2主桁版橋が採択され、この8.5cm厚の版桁は3角形鋼トラス材により支持されている(図-6)。
図-6 ゲルトナープラッツ橋断面図
幅45cmのUHPFRC主桁の中央には、2MN級のSUSPAアンボンドケーブルが配置され、床版と主桁は8℃以上の環境下のエポキシ樹脂で接着、主桁とトラス斜材はボルト結合されることになる。施工は、主桁の付いた3角形トラスを先に据え付け、次に2×5mのプレキャスト床版を順次取り付けていった。図-7は、2006年10月の状況とその位置である。床版の取付けは、温度が8℃以上になる翌年の春まで休止となり、その間、ボルト接合、エポキシ樹脂接合などの調査が実施された。
図-7 トラス構造へのUHPFRC床版設置とカッセルの位置
本橋は、2007年7月にすべての工事を終えた(図-8)。ここでも橋の舗装として、5㎜の滑り止めが敷かれた。なお、本橋は管理車6tf をみ込んだ設計となっている。その後、静的・動的性状の追跡調査のため、カッセル大および連邦材料研究所・ベルリンの専門家らが種々のセンサー12か所を設置し、UHPFRC橋のヘルスモニタリング研究が行われている。2008年から現在まで、異常は生じていないとのことである。
図-8 完成したゲルトナープラッツ橋2007年とヘルスモニタリングセンサー位置
ドイツでは、2016年になって初めて、スイスやフランスで進められてきた床版補強としてのUHPFRC層が、フルダ河上流のフルダ市の道路橋に採用されることになった。但し、現場打ちUHPFRCの基準がドイツにないことから、連邦交通省からパイロット事業としての認可を受け、連邦道路研究所Bastと連携して、スイス規準SIA2052 の準用が認められた。対象は、1967年に州道に建設された37.5mのRC連続桁橋であるが、劣化が進み架け替えが決まっていた。そこで、これを撤去して同じ場所にプレキャストPC桁を並べ、その上に13㎝の場所打ちRC床版+7㎝のUHPFRC層を設け、防水層は設けずに6cmのアスファルト舗装を設置した(図-9 施工前、図-10施工後)。
図-9 フルダ・レーネルツ橋側面図
図-10 施工後のフルダ・レーネルツ橋断面図
パイロット事業であることから、現場付近の州道脇に幅11.4m、長さ5m、10mのRC床版とUHPFRC層との試験施工区画を設けて、ライプチッヒ材料試験所の手を借りて試験施工および付着試験を含む種々の試験を行った。この施工は、現場作業員にとっても施工手順・技術を学べる機会を作った。この試験の結果、WJ処理をすれば境界面での付着は良好であり、接着剤は不要と判断された。試験施工報告書は、1か月後にヘッセン州道路局に提出され、承認されたのち、施工手順を試験施工どおりに行うことを条件に、工事が進められることになった(図-11) 。なお、11.4×10mの試験場では、種々のセンサーが埋め込まれ、今後も研究が進められる。
図-11a UHBFRC層の振動機と均し作業 / 図-11b UHPFRC層の養生シート施工